役行者堂

           和歌山市加太

行きと同じ道を加太駅に向かって帰るが、途中に役行者堂への参道階段の前を通る、
石段を登ると間もなくお堂が見えるが行者堂では無いようである、更に登ると立派なお堂が見えてくる。
堂内には
役行者が祀られているが鉄の高下駄を履いた足元しか見えない。


少年自然の家トイレ

一番奥に少年自然の家のトイレがあり、この裏に弾薬庫が隠れている。

砲台跡(手前)

現在、焚き木が積まれている窪みは砲弾置き場。

棲息掩蔽部跡(中央
 (せいそくえんぺいぶあと)

入口

旧加太警察署庁舎
   
      (中村家住宅)
大正10年(1921年)頃に建築。

加太・和泉砂川
  (かだ)

本殿正面

右側面

弾薬庫跡

木立に囲まれ隠れるようにコンクリート製の弾薬庫がある。

田倉砲台跡

見晴らしの丘から少し登った鉢巻山の山頂付近に田倉砲台跡がある。
現在は少年自然の家のアスレチック広場になっており、砲台跡と棲息掩蔽部跡(せいそくえんぺいぶあと)が各3箇所及び弾薬庫が1箇所残っている様である。

観測所跡

内部 今は長椅子が並べられている。

見晴らし台付近にある棲息掩蔽部跡
                   (せいそくえんぺいぶあと)

砲台長立ち台 
右の角穴は観測所と繋がる伝声管。

観測所全景

伝声管  
上部にある砲台長に繋がっている。

砲座跡

絵馬

神輿庫と神輿

境内入口鳥居

JR紀勢本線 和歌山市駅行
      (JR和歌山駅にて)
        

=====JRと南海を乗り継いで【JR和泉砂川駅】から【南海 加太駅】に移動=====

【JR和泉砂川駅】→金熊寺→信達神社→【JR和泉砂川駅】

【南海 加太駅】→淡嶋神社→加太砲台跡→田倉砲台跡→【南海 加太駅】 

2013年03月12日  (快晴)  29,770歩

加太港に面して鳥居が建ち、碧い海に朱塗りの鳥居が対照的である。
全国に鎮座する「淡島(嶋)神社」・「粟島(嶋)神社」の総本山となっている。
山間征伐に勝利した帰りに嵐に遭遇した神功皇后は神のお告げにより救われ友ヶ島の中の一つ神島(淡島)に上陸した。
島には少彦名命(すくなひこのみこと)と大己貴命(おほなむじのみこと)が祀られており神功皇后はお礼に戦利品の財宝を供えたと言われる。
その後、仁徳天皇(神功皇后の孫)がこの地を訪ねた時に、その話を聞き対岸の加太に移し社殿(淡島神社)を創建したとのこと。

人形供養の神社として知られ境内の至る所には供養のために納められた多くの人形が並べたり山積みにされ壮観である。
最近では人形だけでなく面や羽子板なども並べられている様である。
淡嶋神は婦人病にかかりここ淡嶋に流されたと言われ、婦人病の平癒や安産・子授けにご利益があるとされ、木彫りの男根や自分が履いていた下着を奉納する女性が多いとのことである。

軍用便所

元来た少年自然の家(加太砲台)の入口に戻り、門を出て50mほどの所に軍用便所が今も残されている。
今はもう使われていないようであるが、往時の姿を留めている。

加太砲台跡

淡嶋神社の横の坂道を登って行くと、加太砲台跡に到る、現在加太砲台跡は和歌山市の少年自然の家となっている。
現在は砲台跡・観測所跡が1箇所と棲息掩蔽部跡(せいそくえんぺいぶあと)が2箇所が残っている。

加太砲台 弾薬庫跡

この弾薬庫も木立に囲まれ隠れるようにして建てられている。

田倉砲台跡から望む加太港

この辺りで、標高130m程になる。

南海 加太線 加太駅行
 (南海 和歌山市駅にて)

山門

ビヤクシンノ古木

ビヤクシンノ古木

旧 丸治醤油の煉瓦蔵

大正12年(1923年)建築の煉瓦造りの蔵であるが、今もくっきりと丸治の商標が残されている。

役行者

役行者堂

役行者堂参道入口

途中で見かけたお堂

内部

入口

ポンプ場のある急カーブの下り阪

軍用便所のすぐ下にはポンプ場があり、その裏には弾薬庫がある。

砲台跡(奥)

大砲が2門設置されていた様で円形の砲座跡が2箇所ある。

砲台跡(中央)

棲息掩蔽部跡(手前)
 (せいそくえんぺいぶあと)

内部

一等水準点

田倉砲台跡に向かう

少年自然の家本館の南側の坂を登って行くと鉢巻山の山上にある田倉砲台跡に行くことが出来る。

第一砲台と観測所を結ぶ通路

奥に見えるのは隣接して設置された観測所の階段と入口。

棲息掩蔽部跡(せいそくえんぺいぶあと)

第一砲台と第二砲台の間に在ったもの。

棲息掩蔽部入口

第一砲台跡

砲台全景  周囲の窪みは砲弾置き場。

砲台の後方より撮影

末社  木彫りの男根や自分が履いていた下着等が奉納されている。

遷使殿  祭神の少彦名命の使いとされている蛙が祀られている。

拝殿内に山積みされた雛人形

拝殿

淡嶋神社       和歌山市加太

加太港

加太港から望む淡路島と友ヶ島(手前)
           藍い海・青い空・蒼い島

絵馬

加太 春日神社

                  和歌山市加太

神武天皇東征の際に、天道根命が加太浦に上陸し頓宮を造営し天照大神を祀ったことが始めとされ、かつては住吉社として存在していたと言われる。

本殿は慶長元年(1596年)に建立されたもので重文となっている。

宝号山 称念寺

               和歌山市加太

境内にある観音堂は、元亀二年(1571年)の称念寺が創建される以前に存在していたと言われている。
この観音菩薩は「身代わり観音」と呼ばれ、胴内には頭の無い仏が入っており盗難の者の身代わりとなって頭が落ちたと言われ、人々の苦しみを身代わりとなって救ってくれると伝えられている。
     

境内入口鳥居

道標(嘉永二年)
     と古い町家




 

信達神社(しんだちじんじゃ)

                          大阪府泉南市信達金熊寺

金熊寺の鎮守社で、古くは泉南 樽井の海岸に流れ着いた神武天皇の像を樽井の海岸に祀ったのが始めとされ、その後この地に移されたと言われる。
当初は金熊寺大権現宮と呼ばれていたが明治時代初めの神仏分離令により金熊寺より独立し信達神社となった。
祭神は
  神倭磐毘古命(かみやまといわれひこのみこと) 『神武天皇』

  金山彦命(かなやまひこのみこと)
  伊邪那美命
(いざなみのみこと)            

南海 加太駅

金熊寺梅林
 (きんゆうじ)

本堂屋根と梅林(右奥の小山)

開基 役行者を祀る行者堂

本堂前に咲く紅梅

一乗山 金熊寺(きんゆうじ)

          大阪府泉南市信達金熊寺

天武天皇十年(682年)役行者によって土に埋もれていた金銅像と自刻の如意輪観音を祀るお堂を建てたのが初めとされる。
また、金熊寺は泉州における梅の名所として知られ、境内裏の高台には約2000本の梅が咲き乱れている。
この梅は江戸時代の初めに、お寺の北側に鎮座する信達神社の神主によって植栽されたのが始めとのこと。

本殿

五間社流造りの本殿は精緻に極彩色され、華麗な姿を見せている。

庫と年代ものの神輿

絵馬

JR和泉砂川駅(東側駅舎)

西側駅舎がメインであるが、東側駅舎はピンク色のに塗られたとんがり屋根の可愛い駅舎である。
駅舎を出て空を見上げると雲一つ無い快晴である、金熊寺(きんゆうじ)に向け歩き始める、金熊寺までは3km程か。

見晴らし台より友ヶ島の島々を望む
(右は地ノ島、左は沖ノ島)
この辺りで標高120m程か。

左側面

観測所の後方より撮影  中央部の円形盛り上がり部に観測機器が設置されていた様である。

観測所入口

常行寺のビヤクシン
           
(柏槇)

              和歌山市加太

境内には、樹齢400年、樹高13m、幹周り4.7mの古木があり、ビヤクシンノ古木特有の幹のねじれが見られる。

本堂

  奥には反対側の窓が見える、コンクリートの厚みが良くわかる。

井戸跡

棲息掩蔽部跡(奥)
 (せいそくえんぺいぶあと)

見晴らしの丘

少年自然の家から10分ほど緩やかな坂道を登って行くと途中、東屋の建つ見晴らしの丘に出る。

観測所より第一砲台を見る
右側の建物は少年自然の家の本館。

観測所より友ヶ島の島々を望む
ここは標高約45mほどある。

棲息掩蔽部内部
周囲には丸椅子が並べられている。

砲台正面

砲座跡
周囲にはアンカーボルトが残されており、ここに大砲が固定されていたようである。

棲息掩蔽部内部

棲息掩蔽部跡(せいそくえんぺいぶあと)

和歌山市少年自然の家の入口を入るとすぐ正面にある。
第三砲台と第四砲台の間に在った砲弾・弾薬などの貯蔵庫。

棲息掩蔽部入口

紀文稲荷社

本堂

観音堂と身代わり観音

山門

拝殿

本殿(重文)

防火のためか銅製の扉が印象的である

向井家住宅(向井坊)

右 わかやま道
左 あわしま道

参道入口鳥居 
金熊寺北側に隣接して建っている。

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